2025年12月15日月曜日

28. フィクションの門


ファリサイ派との離婚問答で、イエスは、創世記を引用して次のように答えた

「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ福音書19章5~6節)

人は、性交によって結ばれるという他の多くの生き物と共通の生殖行動を持っている
そこに、精子と卵子が一体となった受精卵が生まれる
受精卵は、人も他の生き物も、もはや二人ではなく、一体である
イエスは、「一体」を繰り返し強調した

人の受精卵は、受胎すると神が「その鼻に命の息を吹き入れ」(創世記2章7節)
生きる者となる

神と女と男は、神の似姿となるためにそれぞれの命を与え合う
これが、「神が結び合わせてくださったもの」の真の意味であり
ここにイエスが「人は離してはならない」と命じたみ言葉の重さがある

そして、これが「神が人にとって父と母である」という真理をすべての人が共有する原点である
しかし、自分も子供だったことを忘れた大人には、「神が人にとって父と母である」という真理は遠い

ファリサイ派との問答の後, 人々は、イエスに手を置いて祈っていただくために
子どもたちを連れて来た
弟子たちは、近づいてくる子供たちを見て、自身に矛盾を感じた
神から離れている自分たちを明らかに見たからだ

その矛盾を覆い隠すために
子供はイエスにふさわしくないというフィクションを共有した弟子たちは
子どもたちを連れて来る人々を叱った
「人間の仕業」が起こったのだ

イエスはこれを見て憤り、弟子たちに神の現実をぶつけた
「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ福音書10章14節)

人々は、フィクションの中にさまざまな門を見る
しかし、どの門も神の現実に通じることはない
ただ御言葉だけが、人々のフィクションを突破し、人々を神の現実と引き合わせる

Maria K. M. 
(参考:ブログ「イエス・キリストの世界観とヨハネの黙示」https://spiritosantowjjp.blogspot.com/

2025年12月14日日曜日

27. 最初のイリュージョン

神こそが、人々にとっての真の父母である。そこで創世記224節にある「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」の「父母」を「神」に置き替えると次のようになる

こういうわけで、男は“神”を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる

 これは、エデンの園で神に創造された初めの男と女の生殖行動が、神と離れたところで始まるという予告である。どうして旧約聖書にこのような予告が書かれたのか

 創世記は、神が初めの「人」から女を創造したことを次のように書いた。「神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られた」(創世記222節)

 これを見た人は言った。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創世記222~23節)

 創世記の神が初めの「人」から女を創造した記述と「人」から「あばら骨」が取られた後の男の言葉は、次のように異なっていた。「人」から「あばら骨」が取られた後、男に錯覚が生じたのだ

女は、「私の骨の骨」であっても「肉の肉」ではない
自分を男と名乗り、女が男から取られたと言った。しかし女は「人」から取られたのである

人間は錯覚を発現すると矛盾を持ち、矛盾は人の意識の領域で重荷となる
そこで人はフィクションを作り、その中に入って矛盾を持ったことを見ないようにする

フィクションを複数の人々が共有すると、「人間の仕業」が起こる
男と女は神が食べることを禁じた木の実を取って食べた

そして、「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」(創世記3章20節)
アダム(男)は、新たな錯覚を持ったのだ。アダムのこの行為は、エデンの園から追放される直接の原因となった

創世記によると、アダムとエバが結ばれるのは、この後、2人が園を追放された後である
まさに、「こういうわけで、男は“神”を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」

エデンの園を追放されたことと相まって、他の動物と同じ目的で与えられた人の生殖行動が神と離れたところで始まったことは、人に、本能からくるような深い孤独感をもたらした

男と女の関係は初めから困難を抱えていた

Maria K. M.
(参考:ブログ「イエス・キリストの世界観とヨハネの黙示」https://spiritosantowjjp.blogspot.com/

2025年12月5日金曜日

26  父と母

創世記の1~2章は、人の無意識の領域に何があるのかを語っている。人は、ここで神が「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記128節)と命じたことをほぼ実現した 

今日、他の生き物たちと比べて、その進化の速さと影響力から、人が神に似せて造られたことは、十分に分かったが、自然の脅威や、宇宙の不思議の前には、人は相変わらず森羅万象の一粒に過ぎないことも明白だ 

人は、目の前にある事柄をいつも自分たちが考え得るように理解し、それを実現してきた。そして、その必要から、生き物の体の働きを解明し、その情報を私たち自身の必要のためにも利用してきた。自然の食物連鎖から離れ、大きく変化してきた人の食物摂取と排出については、病と死の克服をテーマに、その研究が一般に広く伝えられ、学ばれている 

しかし、人の生殖機能については、その研究は進んでいても、多くの現場で性の諸要素の多様性や諸条件の不一致などが壁となって共通認識が得られず、あらゆる深刻な事態を招いている。キリスト者にとっては、その信仰が問われるところである。したがって、人の生殖機能の初めと言える創世記の次の文から考えてみる必要がある 

「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。人とその妻は二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」(創世記224~25節) 

このフレーズは、一般的な人の生殖行動について書いているように見える。しかし、本文の前後関係から見ると、ここに挿入された「父母」という言葉は、神を指していると考えられる。このフレーズは、神が人にとって「父と母」であることを示すために置かれたのだ 

イエスは、神の名が「父」であることを知らせた。ヨハネ福音書は、み言葉が「母」であることを示唆した。このように、人の生殖機能は、「神が人にとって父と母である」ということに、その原点がある

Maria K. M.

(参考:ブログ「イエス・キリストの世界観とヨハネの黙示」https://spiritosantowjjp.blogspot.com/

 

2025年12月3日水曜日

25. 意識の領域

人が、「存在」を「ある」ものとして感じるのは、それが自発性を持っているからだ。創世記1章によれば、自発性の源は、天と地そしてその森羅万象が、「~あれ」という神の言葉によって創造されたことによる 

この神の言葉が、すべての被造物に自発性をもたらした 

人は、この自発性を自身が持っていることを意識できるから、自分が向かう対象に「ある」ものを感じて、それを「存在」だと受け取っている。そこで、聖書の中で、神が「私はある」と言うときも、神が「存在」することだと受け取ってしまう。 

しかし、聖書において神が「私はある」と言うとき、それは、神が人と共にいることを意味している 

出エジプト記の柴の箇所で、神はモーセに、「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである」(出エジプト記312節)と教えた。その名を尋ねると、「私はいる、という者である」(出エジプト記314)と答えた 

イエスもまた「私はある」という言葉を、「神が人と共にいる」という意味で使った。「私はある」という言葉を、「神が人と共にいる」に入れ替えると、ヨハネ福音書の各節は次のようになる 

-「『神が人と共にいる』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(ヨハネ福音書8:24

-「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『神が人と共にいる』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう。」(ヨハネ8:28)、

-「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『神が人と共にいる』」(ヨハネ8:58 

Maria K. M.

(参考:ブログ「イエス・キリストの世界観とヨハネの黙示」https://spiritosantowjjp.blogspot.com/