28. フィクションの門
ファリサイ派との離婚問答で、イエスは、創世記を引用して次のように答えた
「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ福音書19章5~6節)
人は、性交によって結ばれるという他の多くの生き物と共通の生殖行動を持っている
そこに、精子と卵子が一体となった受精卵が生まれる
受精卵は、人も他の生き物も、もはや二人ではなく、一体である
イエスは、「一体」を繰り返し強調した
人の受精卵は、受胎すると神が「その鼻に命の息を吹き入れ」(創世記2章7節)
生きる者となる
神と女と男は、神の似姿となるためにそれぞれの命を与え合う
これが、「神が結び合わせてくださったもの」の真の意味であり
ここにイエスが「人は離してはならない」と命じたみ言葉の重さがある
そして、これが「神が人にとって父と母である」という真理をすべての人が共有する原点である
しかし、自分も子供だったことを忘れた大人には、「神が人にとって父と母である」という真理は遠い
ファリサイ派との問答の後, 人々は、イエスに手を置いて祈っていただくために
子どもたちを連れて来た
弟子たちは、近づいてくる子供たちを見て、自身に矛盾を感じた
神から離れている自分たちを明らかに見たからだ
その矛盾を覆い隠すために
子供はイエスにふさわしくないというフィクションを共有した弟子たちは
子どもたちを連れて来る人々を叱った
「人間の仕業」が起こったのだ
「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ福音書10章14節)
人々は、フィクションの中にさまざまな門を見る
しかし、どの門も神の現実に通じることはない
ただ御言葉だけが、人々のフィクションを突破し、人々を神の現実と引き合わせる
Maria K. M.
(参考:ブログ「イエス・キリストの世界観とヨハネの黙示」https://spiritosantowjjp.blogspot.com/)



